昭和五十六年四月二日 朝の御理解
ご理解大三十三節 「お供え物とおかげはつきものではないぞ」
昨日は一日のお月次祭に併せて勧学祭、そして少年少女会大会ですか、それに私の六十七回の誕生を迎えさせて頂きましたので、その祝賀の宴があのように盛大に催されましたが、去年の勧学祭よりも、去年の生誕の祝賀のよりも、一年一年こう盛大に、しかも垢抜けしてまいっております模様を思わせて頂いて、これが合楽の信心のおかげの在り方でなければならない。現われでなければならなんと思うです。ここで御神縁を頂かれて、だんだん信心の稽古をさせて頂いて、そして力を受け、その力が一年勝りに豊かに大きくなって行く。その一年勝りに豊かに大きくなって行く、それが垢抜けして行く。
もう私は、昨日のあの祝賀パーティの中で行なわれたいろんな演技者達の演技を見ながら、本当に垢抜けしていっておるのに驚きました。最後のここの修行生の先生方のあれは素襖落(すおうおとし)と言うですかね。あれはもうああいう所作物の中でも大変難しいあのとされておるものがね、しかもあれだけ長い、もう見ておってから素人芝居を観ておると言う感じじゃないんですよね。
もう私、昨日ずうっとこう今にも痛み出しそうな胃がおかげを頂いて、昨日は痛みませんでしたし、少しばかりは食事もまともな食事が頂けたくらいでしたけれども、その痛さや不愉快さを忘れてし
まうほどでした。もう最後の引込みなんかは、もううっとりとしてしまうほどでした。
何時の間にどうして、しかもあれが鬘から衣装各々で作ったんだそうです。しかもあの安藤さんの所の端布をたくさん頂いて、それを継ぎ合わせてああいう立派な、立派だというより見事な衣装が出来た。もう驚いて、何回こちらへ下がって言うたか分かりません。もう驚きと言うたらこげな驚きはない。あれが合楽の御比礼だ。とてもとても演技者の演技だけじゃ、神様のおかげを頂かなければ出来ることではない。私はそんなものを感じたんです。
成程お供え物とおかげはつきものではないです。けれども、信心さして頂いたら、一年一年ましな、言うならば形にも現われてくるようなおかげを頂きたい。只今修行中、今こそ力を頂いておる時。 昨日、島野さんの今度高校へ、私立・県立をお願いし、私立にしか行けなかったが、あの少年少女会代表で何か発表して、発表というよりか、あの何か読んでましたでしょう。あの中に言っておりますように、あのとにかく今こそ力を頂いておる時だ、お徳を頂いておる時だという、その実力というかね、そういう時には、形の上には現われるもんではありませんもん。
それこそサボテンじゃないですけれども、十日、二十日雨が降らんでも、いや一ヵ月、二ヵ月雨は降らんでも、じっと根が張って行きよる時ですから、心の中にも、盛り盛りとした力が出て行きよる時です。これは人には分かりません。そりゃあ感じれんことはありませんけれども、その根が張っていっておる時にゃ、それこそ信心のいわゆる佳境に入って行くわけですから、心はどのような場合であっても、落第、それこそ落第御礼が出来るような心の状態がね開
けてくる時ですから、これはこれは目に見えませんけれども、そういう繁昌がなされていきよらにゃならない。
それが形の上に現われてくる時には、今日の合楽のような状態がそれこそ年年歳歳、日勝り月勝りにおかげを頂いて、言うならば合楽が例えば受け持たせて頂く御用でも、私共が信者時代にそれこそ夢に描いておった御用ぐらいなことではない御用がね出来て、言うならば段々ましな御用が、言うなら今日のご理解で言うと、言うならばお供えもいよいよ垢抜けしたお供えも出来るように段々なって行くですから。ただ、金光様ちゃあもうお供えせんでんおかげ頂くといったような観念になってしまうと、いつまで経っても同じことで、いつまで経ってもけちなお供えしか出来ないのです。
ですから、この辺の所をね、私は昨日のその修行生の方達のあのお芝居を見せて頂いてから、とにかくやっぱり一ヵ月も二ヵ月も前から、おそらくは、私は全然知りませんでした。まあ稽古に稽古をしたことでしょうし、まあ大変な手が要ったことでしょうけれども、結局はやろうという気にならなければ出来るこっじゃあない。とても一週間、二十日十日で出来るこっじゃあなかと私は思います。そこには集まるものも集まって、ああいう本当に見ておって素人芝居じゃないようなその実感がね。その観客に与えられるようなことが出来るんです。垢抜けして行くことです。
だから信心も垢抜けして行くということは力を受けて行くことです。ですから、やはりお供えも垢抜けしたお供えでも出来て行くようなおかげを頂き、願わねばいけませんね。もう金光教の信心はお供え物とかじゃあつきものじゃないからね、お供えもちょこっとでよかというようなあの感じ方をする人がありますけれども、それは
言わば欲というもんです。
いよいよね、それこそ一年一年垢抜けして、一年一年言うならばお供えも格段な相違が出来てくるような、十年前も今日も同じといったようなことでは、私は今日のご理解にもとると思うですね。
どうぞ。